全てを意味する3語の言葉――アンジェ・ポステコグルー

それから程なくして、私は怪我のために引退することとなった。そして、これから先何が起こるのかということを27歳にして非常に恐れていた。私は監督をすることが召しであると直感的に分かっていた。父のそばにいたいという想いから生まれた試合に対する執着心は、私が監督業に強い興味を示していることを意味していた。しかし私は恐れていた。もしも失敗したら、そしてそれは私と父に対して一体何を意味するのだろうか?と。

私たちは変わらずゲームを楽しむことができたが、彼の目的は私を奮い立たせることであり、そうすることで彼は自らの誇りの源を得ようとしていたのだ。どうすればそのギャップを埋めることができたのだろうか?

私はすぐさま行動に移して監督としてのキャリアをスタートさせた。「カート・イ・バーラ」と彼は口にし、私は彼が観て喜ぶであろうチームをいくつも建て上げた。

私がエラースを2度のチャンピオンに導いたとき、世代別代表のワールドカップでオーストラリア代表を指揮したとき、そしてギリシャで監督を務めたとき、彼は大きな誇りを胸に抱いた。彼は私がブリスベン・ロアーで成し遂げたことを愛し、メルボルン・ビクトリーが進化する様子を目の当たりにし、ワールドカップでオーストラリア代表を率いて、アジアカップで優勝し、そして再びワールドカップ出場を勝ち取ったことを喜んでいた。彼は私の日本での挑戦も楽しみにしており、チームが磨かれていく様子を好んでいたのだ。

しかし、父がそのように喜んでいたことを私は今まで知らなかった。彼は私以外の人々には先程のように話していたが、彼と私の間ではこのようなものではなかった。お前はもっとうまくやることができた。適切な選手を獲得しなかったし、正しい交代を指示することもなかった。お前たちはあまりにも守備的になり過ぎて、誤った先発メンバーを選んでしまっていた。そうやって責め立ててくることを彼は止めなかったので、私はそれが嫌いだった。そうして、私は成長してきた。

彼と話をするとき、私はいつも9歳の頃の自分に戻っていた。大人になってからでさえも私は彼の批判を甘んじて受け入れ、反発することはできなかった。気楽なものでも、ましてや楽しめることでもなかった。なぜ彼はただ一言「よくやった」と言うことができなかったのだろうか?しかし、私は知っていた。それは私に夢を叶えさせるための、彼なりの方法だったということを。それこそが彼の目的であり、役割だったのだ。

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