全てを意味する3語の言葉――アンジェ・ポステコグルー

 

「カート・イ・バーラ」――砕いて訳せば、“低いボールを出せ”となるだろう。

人々が私の哲学や影響を受けた人物について尋ねてくると、私は「特定の存在はない」と答えるので概して彼らは落ち込んでしまう。バルセロナやリヴァプールではなく、ペップ・グアルディオラやヨハン・クライフでもない。ましてや、私を指導した監督・コーチや共にプレーした選手たちですらない。

答えはあの、たった3語の言葉にまとまっている。父が決まって口にしていた言葉だ。今や彼は亡くなり、私にとっては、これからどのようにしていけばいいのか理解に苦しむ葛藤がある。

我々は移民としてオーストラリアにやってきた。4人の家族――母、当時10歳の姉に5歳の私と父で、父は家族により良い暮らしを与えることを固く決心していた。何の保証も、縁もゆかりも、そして約束もなく、正しく一世一代の決心だったのだ。

過酷な状況だったが、父は逞しく、その時代において理想的な男だった。家族を養うために全てを懸けることこそが良しとされていた。愚痴をこぼしたり助けを求めることは許されず、勤勉に働いて犠牲を払うことこそが理想だったのだ。憧れの存在を探し求めていた少年にとって、日々戦い続ける目の前の男は理想的な候補であった。

しかし、そんな存在と親密になるにはどうすればよかったのか?彼は私が起床する前に仕事へ向かい、夕食時に帰ってくる頃には疲れ果てていて、休息を取ったら再び同じことの繰り返しだったのだ。

月曜の夜、彼は私にいつもより遅くまで起きて『マッチ・オブ・ザ・デイ』※を観るのを許してくれたのだが、そこで私はフットボールを私の憧れの存在と近付くためのパイプだと結びつけていたのだった。

※訳者注:イギリス・BBCのテレビ番組。プレミアリーグのハイライトを1964年から放映している

そして、それは事実その通りだった。彼が試合について解説するのを聴きながら私は彼と座っていた。彼はドリブラーを好み、あるチームが相手の間にパスを通す瞬間もまた愛していた。彼はゴールスコアラーが好きで、「カート・イ・バーラ」とよく言っていた。1975年、彼が私をサウス・メルボルン・エラース※の試合に連れて行ってくれた時、私は夢中になっていた。彼らは私たちのチームだったのだ。

※訳者注:現サウス・メルボルンFC。1959年にギリシャ人コミュニティで創設され、現在はオーストラリア2部に所属

ミドル・パーク※のゲートをくぐったとき、日々の退屈さや辛いことはどこか遠くに行ってしまっていた。私の父であり、憧れの存在である彼から疲れや厳しさなどはもはや無くなり、とても生き生きとしていて、元気に溢れていた。彼は人々とよく関わっていた。慣れない言葉にストレスを抱える日常から開放され、彼の母語で意見や考えを述べられたのである。

※訳者注:サウス・メルボルンの旧ホームスタジアム

レフェリーや監督たちは彼の怒りを買っていたが、彼はいつでもフィールド上のアーティストたちのことを愛していた。ファンを座席から立ち上がらせていた彼らのことを。私はそんな日曜の午後のひと時が好きだった。彼が私をクラブの試合に連れて行く前の晩、私は靴を履いたまま眠っていた。自分はエラースのトップチームと練習するんだ、と思っていた。9歳の頃である。

私の父、そしてモチベーター

そして、私は本当にエラースのトップチームでプレーすることになった。私はルーキーイヤーにチャンピオンシップを戦い、そして後にキャプテンとしてクラブを史上2度目の全国王者に導いた。その間ずっと、彼は私のメインドライバーで、叱咤激励を受けたものだった。

気楽なものではなかった。褒められることは少なく、全てのパフォーマンスは向上の余地があった。あまり好ましくはなかったが、そうすることで私は彼と近付くことができた。それでよかったのだ。

私は他の人ほど選手としてのキャリアを楽しめたわけではない。自分が思い描いていた高みに達することを結局許すことのなかった自分自身の能力に憤りを覚えていたし、私の憧れの存在を失望させてしまうのではないかと不安になっていた。

しかし、あるとき特別な瞬間が訪れた。それは1990年のことで、エラースはメルボルン・ナイツとの伝説的な決勝戦を制したときだった。私はPK戦でゴールを決め、我々の監督だったあの偉大なるフェレンツ・プスカシュ※と共にトロフィーを掲げる機会に恵まれたのである。

※訳者注:元ハンガリー代表FW。“マジック・マジャール”と呼ばれた1950〜54年のハンガリー代表における中心的存在で、FIFAが制定する『プスカシュ賞』にその名を残している

チームメイトと共に勝者としてフィールドを一周しているとき、当時は珍しくもなかったが、大勢人々が押し寄せてきた。そしてある瞬間、私は大きな人影に後ろから抱きつかれたのである。それは私の父だった。彼はフェンスを飛び越えてやってきた。それも55歳にして、である。私たちは喜び踊り、ピッチほどの長さを駆け抜けた。それはまるで、私たちにとっての凱旋のようなものだった。

それから程なくして、私は怪我のために引退することとなった。そして、これから先何が起こるのかということを27歳にして非常に恐れていた。私は監督をすることが召しであると直感的に分かっていた。父のそばにいたいという想いから生まれた試合に対する執着心は、私が監督業に強い興味を示していることを意味していた。しかし私は恐れていた。もしも失敗したら、そしてそれは私と父に対して一体何を意味するのだろうか?と。

私たちは変わらずゲームを楽しむことができたが、彼の目的は私を奮い立たせることであり、そうすることで彼は自らの誇りの源を得ようとしていたのだ。どうすればそのギャップを埋めることができたのだろうか?

私はすぐさま行動に移して監督としてのキャリアをスタートさせた。「カート・イ・バーラ」と彼は口にし、私は彼が観て喜ぶであろうチームをいくつも建て上げた。

私がエラースを2度のチャンピオンに導いたとき、世代別代表のワールドカップでオーストラリア代表を指揮したとき、そしてギリシャで監督を務めたとき、彼は大きな誇りを胸に抱いた。彼は私がブリスベン・ロアーで成し遂げたことを愛し、メルボルン・ビクトリーが進化する様子を目の当たりにし、ワールドカップでオーストラリア代表を率いて、アジアカップで優勝し、そして再びワールドカップ出場を勝ち取ったことを喜んでいた。彼は私の日本での挑戦も楽しみにしており、チームが磨かれていく様子を好んでいたのだ。

しかし、父がそのように喜んでいたことを私は今まで知らなかった。彼は私以外の人々には先程のように話していたが、彼と私の間ではこのようなものではなかった。お前はもっとうまくやることができた。適切な選手を獲得しなかったし、正しい交代を指示することもなかった。お前たちはあまりにも守備的になり過ぎて、誤った先発メンバーを選んでしまっていた。そうやって責め立ててくることを彼は止めなかったので、私はそれが嫌いだった。そうして、私は成長してきた。

彼と話をするとき、私はいつも9歳の頃の自分に戻っていた。大人になってからでさえも私は彼の批判を甘んじて受け入れ、反発することはできなかった。気楽なものでも、ましてや楽しめることでもなかった。なぜ彼はただ一言「よくやった」と言うことができなかったのだろうか?しかし、私は知っていた。それは私に夢を叶えさせるための、彼なりの方法だったということを。それこそが彼の目的であり、役割だったのだ。

フットボールが意味するもの

私の父親、ジム・ポステコグルーは私の知る限り最高の男である。彼は自らの家族を地球の反対側へと連れて行き、自らの夢と野心を犠牲にすることで、代わりに家族がそれらを追い求められるようにした。

自由を与えられたからではなく、自らのルーツに堅く守ることのできる自由があったからこそ、彼はオーストラリアと恋に落ちた。彼は言語に、オーストラリアの風習に、そしてミートパイに48年もの間苦しみながらこの地で暮らしてきた。しかし、彼は子供たちが英語とギリシャ語の両方の学校に通えたことを喜び、彼が愛したゲームを自らの息子が情熱を持って追いかけていることに喜んでいた。

彼は頑固で、厳格な男だった。彼はユーモアに溢れ、いつでも一番を目指していた。彼は家族を何よりも大切にし、それでいて誰に対してもオープンな男だった。姉が言うには、彼は彼の世代の典型的なタイプの男で、他にも彼のような人がたくさんいたそうだ。

私は今ここに座りながら、この先の道のりをなんとか理解しようとしている。私の世界の中心には美しい妻と3人の子供がいる。私に良くしてくれる家族と友人たちにはいつか恩返しがしたいと思っている。そして、私に何が得られるのかを見定める気力と野心がある。

しかし、彼はもういない。今日の私のルーツ、礎となった人物はもはやそばにいない。今や、私の目的は何処にあるのだろう?誰を獲得すべきか、何を行うべきかを私に伝える電話が鳴ることはもうない。何かポジティブな彼の言葉を求め、結局は落ち込みながらも巻き返せることを彼に示そうと勇気づけられるような、そんなお喋りをすることもない。このギャップを埋めることができる存在はいないのだ。

しかし、私は前に進み続けなければならない。鏡に映る52歳の自分を見て、彼がよくしていた表情のいくつかを私もしていることに気が付いた。彼の声は私の頭の中で響いていて、ときどき気が付くと彼の言葉を口にしている自分がいる。彼はいなくなってしまったかもしれないが、今でも私と共にいる。そして、彼の孫に生まれ変わるだろう。彼が灯した炎はまだそこに在り、私は彼の犠牲に敬意を払わなければならない。

私がフットボールを愛しているのは、単にスポーツの中から選んだからではない。私のヒーローに近付くことができるものだったからだ。私たちはときどきスポーツが何なのかを見失うことがある。しかし、私はこれを理解するに達した。勝ち負けではなく、生み出されていくつながりこそがスポーツなのだ。人々をつなぎ、街をつなぎ、国をつなぐ。そして、親と子供をつなぐのだ。

父を亡くしたことは私が直面してきたことの中で最も辛いことである。彼が亡くなる間際、私は彼に愛を伝え、そして私たちを象徴する3語の言葉を言った。「“カート・イ・バーラ”だよ、父さん」。

彼のことが恋しくなるだろう。


本記事は、『PlayersVoice』のファウンディングエディターであるAlex Brown氏の許可を得て全文を和訳したものです。
Special thanks to @AlexBrown77 and @TricolorePride.

https://www.playersvoice.com.au/ange-postecoglou-three-words-that-meant-everything/

Scroll to top